橋北地区の成り立ち

萬古神社

橋北地区は、中心市街地の北に位置し、海蔵川と三滝川に挟まれ、古くは地区を通る東海道沿いに栄え、当時は四日市の文化や生活の中心となった地区です。

橋北地区の歴史は明治22年(1889)年、三重郡浜一色村が四日市町となったのがはじまりです。

その後、明治29(1896)年に四日市市立商業学校(現在の県立四日市商業高校)が創立され、大正5(1916)年には第七尋常小学校(西橋北小学校)が、昭和11(1936)年には第八尋常小学校(東橋北小学校)が創立されました。

昭和22(1947)年には商業学校跡地に橋北中学校も創立され、現在橋北地区には小・中学校2校があり、子どもたちが元気に通っています。(※2013年4月 西橋北小学校・東橋北小学校は統合し橋北小学校が創設されました)

ばんこの里会館

陶栄町の「萬古焼き」は市の地場産業の一つとなっています。

四日市における萬古焼きは、四日市末永村(現末永町)の庄屋山中忠左衛門が、嘉永6年(1853)に窯を開き、20年に及ぶ苦節の末、明治3年(1870)に成功したことが始まりです。その後、川村又助、堀友直らの優秀な起業家も出現し、手捻りの半助、利助、豊助、木型の庄造、ロクロの佐造など優れた陶工らも育ちました。
 四日市港や鉄道の整備に伴い、萬古焼は国内はもちろん、輸出も盛んに行われ地場産業としての基盤が築かれました。

毎年、5月の第2土日には、「四日市万古まつり」が開催され、 「ばんこの里会館」周辺には数多くの店が立ち並び、それを目当てに全国からたくさんの人が集まります。

四日市のコンビナート

また、昭和30年以降には、午起地区の沿岸部が埋め立てられて、大協石油(現コスモ石油)、午起製油所、大協和石油化学、協和油化(現KHネオケム)、中部電力(現JERA)四日市火力発電所とで、第2コンビナートが形成されました。

かつては、「四日市ぜんそく」など深刻な公害問題が発生していましたが、市民、企業、行政が一体となった環境改善の取り組みにより、昭和51年には、ぜん息の主な原因とされる二酸化硫黄濃度が、国の基準を市内全域でクリアするなど、大幅に環境が改善されました。

現在では、旅客船での遊覧による四日市コンビナートの夜景クルーズなど、工場夜景が堪能できる観光スポットとして展開しています。

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